多様なパレスチナ人描く「パラダイス・ナウ」


「あっ!?」、映画館に足を運んだ時、初めて自分の思いちがいに気がついた。私のなかで、この映画のタイトルは「パレスチナ・ナウ」であって、決して「パラダイス……」ではなかったからだ。パラダイス? それじゃぁ、大いなる皮肉ではないか。後日、知り合いとのメールのやりとりで、やはりその人も私と同様に勘違いしていたことを発見。自分でだけではなかったのだなと安心したのだが、この映画についてある程度の予備知識を持った者なら、誰も「パラダイス」とは思えないのではないだろうか。
そんな風に、この映画はタイトルからして人を喰っている。そして……、本編自体でも、私たち他所の世界の人間を、そして自分たちの境遇をも自ら笑い飛ばしているかのような場面にしばしば出くわす。私には、パレスチナ人はどこか皮肉なユーモアを隠し持っているように感じられるが、逆境に立ち向かって生きるための気力を振り絞るには、ブラックな笑いから生じるエネルギーが必要なのだろうか?
映画のストーリーはこうだ。自動車工場で働く幼なじみの2人の青年が、組織から自爆攻撃の任を告げられる。彼らはかねてから決意をしていたのだろう、淡々と準備を進める。冒頭、ヒゲづらでボサボサ頭だった2人は、何か頼りなげで、世界中どこにでも見かけられるであろう無碍な時間を過ごす青年たちだ。それが坊主刈りにして、身分を隠すために黒いスーツを着ると、それまでとは明らかに風貌がちがっている。……そして決行へ。
決意を固めていたように見えた2人だが、いくつかのトラブルを経るうちに、それぞれに気持ちを変化させていく。その軌跡がこの映画の見どころであろう。
自爆攻撃に至る人間にも家族があり、それぞれの思惑や希望、絶望があることが明かされる。2人のうちの片方は、父親がパレスチナ民衆の「裏切り者」とされて精神的に追いつめられてもいる。「国際社会」が「テロリスト」とひと括りにする彼らが、一様でないことに気づかされる。考えてみれば、それは当然のことなのだが、こうしたパレスチナ人を描いた映画がこれまで広く上映されたことはなく、ついつい私たちはそんな当たり前のことすら忘れてしまいがちだ。
かといって、この映画の目的は、彼らの行為を正当化させるためのものでは決してない。攻撃に至るまでの軌跡を、映画を観る者にともになぞらせることで、その行為の意味を改めて問うているのである。
だから組織も崇高には描かれていない。遺書として映像を遺す場面では、これから死に赴こうとして語る青年の前で、むしゃむしゃとパンをかじるグループの男たちがいる。組織のリーダーは知的な雰囲気だが、“決して自らの手は汚さない”というようなずるさも垣間見える。そんなところに、前述したブラック・ユーモアを感じる。観る側は笑って、怒って、慄然として忙しい。
この映画で私が一番心惹かれた場面は、自動車修理の仕事を終えた2人が、土手に座り込んで水タバコをくゆらしているところだ。何か気持ちを持て余したような2人が、たわいもない会話を交わす。なにげないこの夕暮れの一コマが、何かとても豊かなものに感じられる。そんな時間を、かつて私も持ったことがあったなあという感慨にもひたらされる。……彼らが自爆攻撃を命ぜられるのは、その直後なのだが。
そして彼らは、それぞれの家庭でつましい食卓を囲む。ひとりは寝付くことができずに夜明け前に女性の家を訪ねたりもするが、そこでも何か劇的な会話が交わされるわけではない。


この静かな生活から自爆攻撃へと彼らを向かわせるものは何なのだろう。
自爆攻撃を行なう者にとってイスラエル人の命は奪うべきものなのだろうが、何よりも自分の命が軽いものだと、彼らは長い年月のなかで刷り込まれてきたのではないだろうか。それをしたのはイスラエルであり、そして私たち外の世界の人間たちによってだ。
“お前たちなんて、ちっぽけな存在だ。だから60年もの間、世界はお前たちを無視してきたのだ”……そんな風に、繰り返し知らしめられてきたからこそ、“そんなに軽い命なら、投げ出してやろうか”と、自爆攻撃に走るのではないだろうか。
では、彼らをおとしめている世界は何を求めているのだろうか?
そんなことを考えさせるという意味でも、やはり必見の映画である。何も難しいことはないし、さまざまな見方が可能だろう。単にサスペンスとして観ることだってできるだろう。主人公の身近な女性として聡明な美しいパレスチナ女性がふたり登場するが、そんなところを興味の入り口にすることだって許されるはずだ。
とにかく先入観なく観る。そこから始まるのだと思う。