アフリカの餅!? フトゥ
パリのアフリカン
人は誰でも忘れられない土地というものが、この世の中にあるのだと思う。ある人にとっては、生まれ故郷だったり、他の人にとっては海外旅行でたまたま訪れた場所がそうなる可能性もあるだろう。
私にとってその場所はどこかと考えれば、10年以上暮らしたパリと西アフリカの国々になるかもしれない。
私が始めてアフリカの文化を身近に感じたのはパリだった。
1993年に東京からパリに生活の拠点を移し、パリで何か写真のテーマを見つけたいと思いながら、カメラを持ってアラブ、アフリカ人街を毎日のようにうろうろしていた。パリにやってきたのにフランスの文化に触れるより、パリに住む外国人の暮らしや文化に触れるほうが私には面白かったし、パリはそんな私の好奇心を思いっきり満たしてくれる街だった。
パリの北、地下鉄のバルベス駅周辺には安物の衣料店やアラブのカセットテープやビデオを売る店、その周辺にジェラバ(モロッコの民族衣装)を着た男達がたたずみハマム(アラブ人の公衆浴場)があったりして私にとってパリで最もエキゾティックな界隈だった。
バルベスに近い地下鉄のシャトールージュ周辺にはアフリカの食材を売る店がいっぱいあって、通りにはみ出したように売っているバナナや芋類、真っ黒な薫製の魚、エキゾティックな野菜や果物、時々どこかから聞こえてくるアフリカンポップスのなかを歩いているとパリに住んでいる喜びがじわじわと沸き上がってきて、何とも嬉しかった。
そんなこんなで毎日飽きもせず、シャトールージュ周辺をカメラ片手に歩きまわっていると自然にアフリカ人の友達もできて、日常的にアフリカ人と接する機会が段々と増えてきたのである。日本人の友達がフランス人の男の子と知り合いになったりしているのに、気がつけば私のまわりは黒い肌の人ばかりという具合だった。
大音量と大鍋
彼らに誘われてコートディボアールの人のフェット(パーティ)に行くとドレスアップした男性と女性が次から次へとやって来て、一晩中大音量でガンガン踊りまくっている。それにしても驚いたのはみんな本当におしゃれだということだった。「外見がすべてだよ」といわんばかりにリキがはいっている。女性たちは、黒い肌に原色のドレスが似合っているし、男性は皆三つ揃いで決めて、きれいな色のネクタイとシャツ、スーツの色のコーディネートがとてもシックだ。昨日や今日始めたおしゃれではない、年季がはいっている。
着飾ってエネルギッシュなダンスをする彼らを見ていると、フェットに来て踊るために生きているんじゃないか? そんな気もしてくるのだった。
フェットも佳境になると、アフリカ版炊き込みごはんや魚の揚げたもの、名前の知らない辛い料理などが大鍋に盛られてドーンとでてくる。辛さのなかに複雑な甘みもあったりして、始めて食べるアフリカ料理は思ったより食べやすく美味しかった。
セネガル人に連れて行ってもらったバーはスクワット(空いている建物に不法入居すること)された建物の中にあって、夜中になるとマリ、セネガル人たちがどんどん集まり、朝の2、3時頃からダンスが始まる。曲は1950、60年頃の懐かしいキューバの曲のようだった。
ドレスアップした男と女がゆるやかにステップを踏む、何だか古い時代にタイムスリップしたような不思議な空間だった。いつか私もこのステップを覚えて、ダカールのクラブで踊ってみたい! そんなことをボーと考えながら隣のセネガル人を見ると、彼はセネガル料理のヤサを愛おしそうに食べている。2階には頭にターバンを巻いた黒人の男たちが集まっていて、何か秘密結社の集会を覗いたような感じだった。
道にはみ出した生活
フランス人の来ないこういったアフリカ人のコミュニティに行ったり、見たりしてアフリカのカルチャーに触れたように気になっていた私はパリ滞在3年目にして、いよいよ本当のアフリカ行きを決めた。
最初に行った国は西アフリカのコートディボアール、友人が里帰りをするというので、アビジャン(首都)に一緒に行くことにしたのだ。
当たり前だが、初めてのアフリカはパリで感じていたアフリカとはやはり違っていた。おしゃれした女性たちはパリで見た人たちよりもっと綺麗だったし、人々は慎ましやかで、親切だった。大通りから一歩入ると、女たちは道ばたで赤ん坊を背負って食べものを売っていたり、その側で子供たちはパンツ一枚で走り回っている。羊の肉がドラム缶の上で焼かれていて、その匂いの中で男たちはメッカの方向に向かってお祈りをしていた。
食の風景は街のいたるところにあり、生活が道にはみ出している。ヨーロッパの冷たい石の文化ではない、どこか私たちアジアの国々と似ているように感じられる。
現地の女の人が着るドレスを下町の仕立屋で作ってもらって、街で着ていたら、何人ものすれちがった知らない人に「よく似合うね」と言われたり、トレッシビル(アビジャンの下町)で子供たちを写真に撮っていたら、どんどん子供が集まってきて歌を歌ったりダンスをしたりで大騒ぎになった。子供は本当に可愛く、人々の穏やかな微笑はずっと心に残った。
アフリカ女性たちと
初めてのアフリカでいろんな事にびっくりしたが、中でも驚いたのは「食」だった。巨大なカタツムリ、動物の内蔵や臓物、真っ黒な薫製の魚、いろんなものに遭遇してその度にビビっていたが、サルの頭の燻製を冷蔵庫で見た時は腰をぬかしてしまった。
大きなパーティがあると、女たちは肉の解体、内臓の処理や洗浄を半日がかりで行い、それから調理にとりかかる。日頃の夫への不満やうっぷん、知り合いのうわさ話に花を咲かせながら料理を作り、またこうやって憂さをはらさなければ、やっていられないと思う程、彼女たちの仕事は多かった。
肉の塊や内蔵、臓物料理は何だかこわくて、エイッと気合いを入れながら食べていたけども、食べながらいつも思うのは日本料理の繊細さだった。特に懐石料理に見られる器と料理のハーモニーや小皿にちょこんと盛りつけられた美しい料理、料理さえもアートにしようという試み。そんな日本の料理と目の前の料理のなんと違うことだろう! 日本の食文化は世界でも類を見ない特別な文化ということを改めて認識したのもアフリカに行ってからだった。
さて、こわい料理を目の前にしてビビっていたばかりではなくて、ここでは可愛らしい食べ物にも出会った。「フトゥ」という名のバナナ色で丸い形をした主食だ。これは芋とバナナを蒸かし、それを臼のなかに入れ、杵でつき、粘りをだす、日本の餅つきの要領で捏ねるが、その時にペッタンペッタンという音ではなくてドーン、ドーンいうような音がする。
私が滞在していた友人の家でもお母さんと女中さんが朝早くからこれを作っていて、毎朝このドーン、ドーンという音で目が覚めた。女中さんの名前はクソウといって、アビジャン近郊の村から働きに来ていた。まだ14、5歳くらいだったが朝から晩まで黙々と働いていて、一言も口を聞かず、朝の家事が終わると、前日の晩に作ったジュースを近所の広場で売っていた。食事は台所の片隅で残り物を食べているようだったし、廊下にゴザを敷いて寝ているようだった。
ある日、広場の前を通るとクソウが友達と一緒にいつものようにビサップやショウガのジュースを売っていた。私を見つけると友達に「この人は日本人でね、マダムの2番目の息子のガールフレンドなんだよ」と話している。家で見るクソウと全く違ってニコニコして本当に楽しそう。いつも友人のお母さんであるマダムにこき使われているので、ちょっと可愛そうと思っていたが、昼間こうやって友達と一緒におしゃべりしながら息抜きしているところを見て、何だかほっとした。
マダムは若い頃に離婚して二人の息子を育て上げ、フランスに息子達を住まわせていることが、彼女の誇りのようだった。気難しい人だったが、私に自分のドレスをくれたり、買い物に付き合ってくれたりして、やさしいところも充分にあった。アパートのテラスでアビジャンの夜景を見ながら、「厭なことがあってもこの夜景を見ると元気になるわ」と言ってよく夜にテラスに立って遠くを見ていた。
心に残る食体験
クソウとマダムの作ったフトゥは、パリに帰るまで毎日のように食卓にのぼった。これを手でちぎりながら「ソース」という野菜や肉、魚を香辛料で煮た煮込み料理と一緒に食べる。「ソース」のヴァリエーションの豊富さもあって、フトゥとソースの組み合わせはなかなか美味しかった。
クソウはあれ以来、私の前で笑顔を見せることはなかったが、パリに帰る前日写真をとってあげると言ったら、ワンピースに着替えヒールのある靴に履き替えてやって来た。彼女は相変わらず無口だったが、カメラの前でいろいろなポーズをとってくれた。写真はアフリカの人たちにとってハレの日の特別なことのようだった。
パリに帰ってアフリカのレストランや友人の家でフトゥを見るといつもアビジャンで最初にこれを食べた日々のことを思い出す、そしてマダムとクソウのことも……。
その後、コートディボアールの何年か後でセネガルやブルキナファソにも旅をしたけれど、アフリカの食体験はどの国にもまして強烈で記憶の中に色濃く残っている。

アビジャンの下町のジュース売り