道端のお供え(バリ島-その1)

鼻の記憶
バリ島に着いた実感は、いつも空港を出た直後。バリのにおいを呼吸した、そのときに感じる。同時に目にする熱帯の町の風景も肌にはりつく湿気った風も、十分に「ここがバリだ」と教えてくれるのだけれども、私の場合は、なぜか鼻の記憶が真っ先にバリと自分の身体をつなげてくれる。バリでの定宿に向かう道すがら、そのにおいは湿り気を含んだ熱気とともに間断なく漂ってくる。
芳しく甘い花々や果物、植物のにおいは、お香のにおいも混ざって一層甘い。そして生活のにおい。ココナッツオイル、丁子煙草、炒めて香り立つ香辛料や食材。それらの豊かな香りに、犬や家畜の体臭、生ゴミの腐敗臭も混じる。清濁混ざり合った営みのにおいにかぶさって、自然の陽や雨風をたっぷり含んた土がさらににおい立つ。
バリのにおいは大げさに言えば「生物の生と死が発するにおい」だと思う。自然も動物も植物も、ありとあらゆるものが時間とともに生まれ成長し朽ちていく循環。それらがしっかりと空気のなかにあるものだから、バリのにおいは実になんとも艶めかしい。
たとえば東京の、基本的に清潔で流れが途切れたのっぺりした空気に慣れてしまった身体には、バリのにおいが伝えてくる大きくつながった濃密な生命力は圧倒的すぎて、正直ひるむ。でもそれをそのまま受け入れたとき、東京で暮らしている感覚では見えなかったものが見えてくるのだ。
においの一端を担う
そんなわけで始まった熱帯コラム「かの島の気配から」。インドネシア・バリ島や沖縄など、南の島特有の濃密な空気感を入り口に、芸能や文化、そしてまた、かの島ならではの不思議な出来事などを紹介していきたいと思う。ちなみに私は現在、バリ舞踊に関わる活動をしていることもあり、このコラムもまずはバリ島から始めたい。お付き合いいただければこれ幸い。
さて、私には印象的な"バリのにおい"だが、その土地特有の自然と生活のにおいがするということなら、世界中のどこに行ってもある話。だからバリだけが特別だとは思わないが、でもちょっとした人の力がそこに働くのがバリのおもしろいところだ。それは実は宗教上のことだったりするのだが、異国の人間からすると、単純にバリ人の発想や行動に思わずうならされることになる。たとえば、バリのにおいの一端を担っているのが、屋内外を問わず、いたるところに置かれている「チャナン(お供え)」だ。
チャナンとは、ギリギリてのひらに乗るぐらいのサイズの、バナナの葉でつくった容器(四角や円形、扇形など)に、色とりどりで香りのよい花や葉を敷きつめ、さらに炊き立てのお米やすり下ろしたココナッツなどを少量乗せたお供えだ。毎朝、その一つひとつに、一家の祭事を司る女性(その家の奥さんだったりおばあちゃん、ときには娘さんだったりする)が祈祷の言葉を唱えながらお香の煙と聖水で清めていく。
枯れ、しおれ、腐る
このチャナンが、家寺の祭壇はもちろん、門などの入り口、各部屋、台所、クルマやバイク、さらに箒や塵取り、水道メーターなどの日用道具、そして家の前の道路などなど、数えたことはないが、各家庭でおそらく数十カ所のしかるべき場所に毎日供えられるのだ。
摘んできた花を、さらに濃厚なお香の煙で清めるものだから、朝には甘い香りがそこかしこに広がる。そのなかに炊き立てのお米やココナッツのにおいが混ざるので生々しいことこの上ない。
しかし、昼も過ぎ時間が経って太陽の暑い熱にやられると、当然だが、容器のバナナの葉は枯れ、花はしおれ、米は腐る。とくに道端に置かれたチャナンは、人やバイクに踏まれ蹴散らされ、犬や鳥がお供えの米や食べ物を食い、それらは食べ散らかされ、日暮れには聖なるお供えもゴミと区別がつかなくなっていく。朝に発していた甘い香りはかすかにすえたにおいとなって空気に混ざり、最後はまさにゴミとなって残った葉の容器や花は道端に寄せられる。そして翌朝にはまた新しいできたてのチャナンが、同じように供えられるのだ。
こうした宗教上の行為に合理性は相いれないだろうが、たとえばお供えの容器は再利用できるものにすれば、毎日のことだけに少しは楽なのでは? などと、思ってみたりもする。まあ、なぜそうしないかは、自然のサイクルや信仰に対するバリ人の意識などから、ちょっと考えればわかることなのだけれど、なによりも、毎日毎日トレースするように同じ繰り返しでありながら、しかしそれは決して同じものではないという止まらない時間が、バリ島を覆う大きな循環をつくっているのだろう。バリの艶めかしいにおいの正体はおそらくここにある。
